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 昭和39年(1964)に旭村農協(現・JA茨城旭村)が設立。2年後の昭和41年(1966)にはプリンスメロン部会が発足。接木栽培への転換やメロン専用の肥料の研究等により、徐々に安定した生産が見込めるようになり、昭和44年(1969)には会員数221名、畑は42ヘクタールに増えました。そしてメロン作りを始める時に浅田さんが目指した1億円の販売目標を、初めて超えることができました。

 しかし骨組みに使う素材こそ竹からパイプへと変化していたものの、当時の旭村(現・鉾田市)はまだトンネルの路地栽培です。温度管理が難しく、その年の天候の変化に一喜一憂していた頃、早々にビニールハウスを導入し、質量共に安定した結果を出していたところがありました。九州の熊本県です。

「東京青果株式会社の市場担当者が、お前、熊本へ行ってメロンを一度見てこいというわけだ。俺もそのつもりになって農協の関係部署に相談したんだが、そんなことに金は出せない。どうしても行くなら農協辞めてから行けなんて言われてね。これは困ったと思ったところに、ヒロシさんが俺が全部出してやるって言ってくれたんだ。

 ヒロシさんというのは、農協の青果物を運んでいた酒井運送という会社の社長、酒井廣さん。親分肌のいい男で、皆んなからの信望も厚く、俺と非常に話しが合うんだよね。俺は運転免許を持っていないから、メロンの様子を見たり集荷場を回るのに自転車で移動していたんだが、いくら時間があっても足りないのにそれでは大変だろうと、クルマを出してくれて、専属の運転手をつけてくれた。旭のメロンがここまできたのには、ヒロシさんの存在というのはとても大きかったね。

 そのヒロシさんが、その時も農協から金なんか出してもらわなくていい、運転も俺がしてやるからって言ってくれた。それでヒロシさんと、役場の運転手をやっていたゴロちゃん(杉本五郎さん)と俺と3人で七日間かけて、熊本までハウス栽培の視察に行ったんだ」

 なんの伝もないまま熊本に向かった浅田さんたち。まずは熊本県庁に向かい、視察の受け入れ先の相談に行きました。するとたまたま農林部長を務めていたのが鯉淵学園の先輩で、力を貸してくれたのです。視察をするならここが良いのではないかという農協を4、5カ所教えてもらい、あとはほぼ行き当たりばったり。いきなり訪れて直談判という方法でしたが、先輩のおかげで順調な視察調査をすることができました。

「向こうに着いたらただただびっくり。これは参ったなと思ったよ。今のハウスとは全然違うけれど、その原型が既にあった。やっぱり熊本の農業は進んでいたんだね」

 視察で得た見聞を熱心に聞いてくれたのが、樅山地区のメロン作りの中心人物、細谷忠兵衛さん。力を合わせて自分たちでハウスを建て、メロン作りを進めてみようということになりました。

 その頃農協で主に委託していた資材屋さんがご自身も農協の組合員で、その方の協力を得て鉄パイプなどの資材を調達。熊本のハウスをお手本に、一から手作りしたビニールハウスの評判はあっという間に広まり、2、3年もするとあちらこちらにハウスが軒を連ねるようになりました。

 ところがハウスでメロンを作れるようになっても、それだけではハウスの建設にかかった経費はすぐにはまかなえません。あの頃でも10アールのハウスを建てるのに80万から100万円位の費用がかかり、当初は国や農協からの補助金等は出ていなかったのです。

 メロン一作では翌年にならないと利益が発生しません。それならばメロンの栽培期間外に何か他の作物を作り、1年で二作できれば良いのではないか。

「そう考えて最初はレタスなんか作ってみたけれど、2、3年試行錯誤するうちに、これはトマトが適しているのではないかという考えになった。そこでメロンを作っている人たちに集まってもらい、思い切って皆んなしてトマトを作ろうと提案したら、全員が協力してくれたんだ。それでトマトの大きな産地がいっぺんに、1年のうちに出来あがって。茨城県で最初のトマトの銘柄産地の指定を受けた。これはなんとも嬉しかったね。メロンとトマトを組み合わせれば、麦もさつまいももやらなくて済むようになる。その方が利益率が高いから、自ずとそういう流れができてきたわけだけれど。でもそれだけでなく、世の中の需要的にもそうした品目が求められてきた。食生活がどんどん変わってきだしたんだよね」

 路地栽培では6月後半からの出荷でしたが、ビニールハウスが導入されたことにより、初めて5月下旬からの出荷が実現しました。

 この頃からメロンが旭村の基幹作物として普及しはじめ、施設への投資と技術向上への努力が本格的になされるようになりました。以後、いくつもの品種の変遷を経ながら、土壌改良や施肥設計など、良質なメロン栽培に向けての工夫を凝らし、着々とその生産量を伸ばしてきました。

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 和製本格メロンとして一世を風靡したプリンスメロンでしたが、今日に至るまでにはそれに続くさまざまな品種の移り変わりがありました。種苗会社としてももっとおいしい、もっと売れるメロンを目指して、開発が進められてきたのです。プリンスメロンにつる割れ病が発生したときも種苗会社の研究を元に、自根栽培から接木栽培へ転換するなど、適切な対処がとれたのでした。

「千葉県にサカタ種苗の研究所があって、そこには鯉淵学園の卒業生が何人もいたんだわ。だから俺、何回もそこへ行ってアドバイスしてもらったり、いろいろな種をもらってきた。当時メロン作っている若い連中に集まってもらって、メロン研究会というのをやっていたんだ。その頃は種苗会社各社から、ほぼ同時期にいろいろな新種の種が作られていたから、どれを作ればいいか迷ったんだよ。作る人が迷ってはいけない。それで若い人等に実際に作ってもらって比べてもらおう、選んでもらおうっていうことでね。サカタ種苗の他にも5、6社のメーカーからタネを仕入れては、そこで栽培してもらった。できたメロンを東京の大田市場に送っては、その評判を教えてもらった。そういうことを2年間やって、その結果、これが最高だって言われたのが今のアンデスメロン。それからアンデスメロンをどんどん作るようになった」

 アンデスメロンが誕生し、市場で好評を得たのが昭和52年(1977)のこと。翌年にはアンデスメロン部会を結成。その翌年にはアムスメロン部会が結成されました。

 そして昭和56年(1981)、茨城県最初の共同選果場が完成し、翌年のメロンからレーン選別が稼働。同年、旭村のメロンは茨城県青果物銘柄産地の第一号に指定されました。

「初めての選果場ができる前のことだけどね、県の方からメロンを作っている農協の担当者たちを集めて、果菜作りにはどういう課題があるか、これからどういうことすれば消費者の皆さんのプラスになるのかというようなことを投げかけてくれて。そういうことを検討する集まりが何回かあったね。それとはまた別に、当時の竹内知事が県内農協担当者を集め、酒を酌み交わしながら話を聞くという、そういうことも何度もあったんだ。俺なんか知事と話が合って仲良しになってね。それから初代の共同選果場が間もなく出来上がることになるわけだ。だからこれね、農家だけの力ではなかなか全体のプラスになることは難しいと思うけれども、農家と農協と行政とが一緒になって解決していくっていうのが大事だったね」

 共同選果場ができた頃、メロンの産出量は毎年順調に伸びていました。この時はまだ目視による検査で、新しいシステムに慣れないうちは一元集荷された大量のメロンをうまくさばききれず、夜中までかかることもしばしばありました。

 当時はメロン部会の支部長たちを引率しての市場研修も頻繁に行われていました。早朝の競りを見学するためのバスの集合時間が午前3時。農協の担当職員は1時半か2時に仕事を切り上げ、一旦家に帰りお風呂に入ってまた農協へ。一眠りする間もなく研修に同行します。時には10日も選果場に寝泊まりすることもありました。

 計算上は何時間で終わる作業だということでパートさんを集めますが、予定通りに終わらない。どうしても人手が足りない時は、メロン部会の支部単位で農家さんに手伝いをお願いしたそうです。「今日は午後5時からのお手伝いを◯◯支部お願いします」それでも終わりそうにないと、次は夜の12時から別な人にお願いする。すると深夜でも手伝いに来てくれたのですから、農家さんたちの努力も並大抵のことではありませんでした。

 当時の状況を知る元JA茨城旭村職員の酒井亨さんはこう語ります。

「自分たち職員は寝不足で疲れてしまい、夜10時の10分休憩なんかにメロンの間で寝てしまうんですよ。レーンが動いても起きられない時もありました。疲れてんだから少し起こさないでおいてやっぺよ、なんて声が聞こえたりして。鉾田のメロンがここまでになったのは、農家さんたちの献身的な協力があってこそのことなんです」

浅田さんも当時をこう振り返ります。

「多い時はメロンの農家さん430人もいたんだからね。ほとんどの人は協力的だけど、なかには面白くなければすぐ喧嘩始める人もいた。それはどこの世界も同じだと思うけれどね、実際には本当にいろんな人がいた。その中で俺、何を頑張ったかと言えば、どういうことがあっても、耐えるための努力だけはしてきたと思う。そうしてメロンで一つにまとめていくっていうのはやっぱりね、ちょっと手応えがあったね」

 平成元年(1989)に赤肉のクインシーメロンの栽培が本格的に始まり、同年、選果ラインの増設と予冷庫の導入を実施。全国に先がけてメロンの予冷出荷を試みます。

 そして平成15年(2003)、鉾田市造谷に現在の大規模な青果物管理センターが完成します。糖度や熟度といった作物内部の品質検査が行える光センサーと、1玉ごとに生産者および生産物の栽培情報が分かるトレーサビリティシステムを導入。それらの検査データが保存された個体管理ラベルを貼付し、箱詰めから封函まですべて自動で行われるようになりました。

 これにより、見た目だけでは味や食べごろの見極めが難しいメロンの格付けに革命が起きました。「JA茨城旭村のメロンなら間違いなくおいしい」という、確かな保証が約束されることとなったのです。

 

 

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