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HOMESPECIAL > 革新的営農指導員の原点

 今日鉾田市がメロンの一大産地として知られるまでには、いくつかのターニングポイントと、いくつもの試練がありました。農家と農協が力を合わせ、難局を乗り越えてきたその真ん中に、浅田昌男という人がいました。まずはその人となりの片鱗をお伝えするために、『20世紀 茨城の群像』という本から、一部抜粋してご紹介します。

『20世紀 茨城の群像』は1999年に茨城新聞社より発行。茨城県が輩出した著名な人物100名を紹介するもので、板谷波山、野口雨情などの偉人と共に、農業関係からは唯一、浅田昌男氏が名を連ねています。

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「旭村を日本一のメロンの里に/浅田昌男」より

 浅田は六年前に第一線を退き、現在は農協営農情報センターで相談室長を務める。苦労話を尋ねても「自分は毎年夢中でやってきただけ。種屋と農家と市場で努力したから普及した」と強調するだけだ。しかし彼の研究心と行動力に影響された農家は多い。以前農協メロン部会長を務めた井川良包は、「口数は少ないが決して妥協しない人。常に先を考えて行動したから、今日の産地がある」と評価する。

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 満州事変の翌年、昭和7年(1932)2月19日、昌男は6人兄弟の長男として生まれました。その2月は日本陸軍が上海への上陸を完了し、20日に中国軍に対して総攻撃を実施。3月1日には国内外に満州国の建国を宣言した、そのような世相の頃のことです。日本は戦争へと突き進む不穏な空気に満ち、多くの人が貧困にあえいでいました。

 昌男の家族も北海道に入植してからだいぶ経つものの、相変わらず凍てつく大地から得られるものは少なく、貧乏な暮らしから抜け出すことはできずにいました。ニセコで米は採れません。主食はひえ、いも、かぼちゃ、とうもろこしなど。畑では主に男爵芋を作っていました。日中は畑仕事に明け暮れ、それが終わると生活の中心である馬の世話に追われます。開拓農民にとって馬は不可欠の道具であり、決して失ってはならない財産でした。

 昌男も幼い頃から働き手の一人として、仕事を手伝っていました。厩舎の掃除や餌やりなど、馬の世話をさせられることも多かったと言います。当時の暮らしは便利さとは無縁で、風呂に入るだけでも井戸から水を汲み上げ、薪を割って用意し、時間のかかる労働の一つ。生活を維持するための最低限の家事だけでも、やることは無限にありました。

 年齢が進むにつれて、家の手伝いをしながら気づくことも出てきます。きつい労働を少しでも効率化したくて、改善策を思いついては取り入れようとしますが、長年のやり方に固執する父親はいっさい聞く耳をもってくれません。「お前になにがわかる!」とばかりに、すぐに鉄拳が飛んできました。疑問に思ったことを尋ねるだけでも、口ごたえととられたのでしょう。平手で頬を叩かれることもしばしばありました。

「これは俺、なにを悪いことしたのか、自分ではまったくわからないんだ。まだ子供で小さいからね、平手でパン!とやられてよろよろすると、反対側からも飛んできた。あれはなんのためだったのかな。往復で何回もやられたね。あの頃に頭でも撫でてもらえば、きっと俺ももっと良くなっていたかもしれないけど」

 遠い日の思い出にはこんなこともありました。それは昌男が小学校の1年生か2年生の時。何が原因か覚えていませんが、父親に体を縄で巻かれ、家の近くの大きな胡桃の木に吊るされました。後から母親が助けに来てくれましたが、足の先から地面までは結構な高さがあり、体を支えるのに苦労しながら、やっと下ろしてもらったことを覚えています。

 尋常小学校に上がると、昌男は学校が大好きになりました。友達にも会えるし、学校にいる間だけは父親の目を気にせずにすみます。椅子に座り、黒板に向かって勉強する時間のいかに平和で尊いことか。旺盛な好奇心を満たしてくれる、自分のためだけに使える時間。学ぶことの楽しさと、思いどおり自由な心でいられる喜びが、そこにはありました。

 しかし昌男が尋常小学校に入学した年の7月に日中戦争が勃発します。3年生の時には第二次世界大戦が。そして4年生の時、いよいよ日本の国土にも戦火のおよぶ太平洋戦争が始まりました。徐々に学校の授業が減り、奉仕作業や家の手伝いをすることで月日は過ぎていきました。

 当時の義務教育は6歳で尋常小学校に入学し、12歳で卒業。12歳から14歳までの2年間は高等科に通うことになっていました。しかし昌男が高等科に進む頃には戦局が悪化し、学校どころではありません。授業はほとんど行われなくなっていました。

「農家の人たちもずいぶん戦争に引っ張られて、残された働き手は女の人が大部分だったわけ。だから高等科の1年2年というのは農家の手伝いばかりでね、ほとんど勉強なんかさせてもらえなかった。上の学校へ行きたくても金もない。親父に言っても喧嘩になって。上の学校に行くなんてとんでもないという考えだからね」

 青年期になると、昌男の先進的な考え方はますます父親と合わなくなっていきました。相談したいことがあっても、話し合いそのものが成立しません。学びたい意欲は許されず、明らかに収入の増加が見込める提案も否定され、頭ごなしに昔ながらの生き方を強要されながら顔を突き合わせる毎日。閉塞感に押しつぶされそうでした。

「開拓農家に生まれた長男だったからね、どうしても北海道で農業をやらなくちゃならないという宿命の中に生まれてきちゃった。悶々としながら何年も過ぎちゃってね。でも二十歳もすぎてから、とにかくいろいろなことを勉強しなくちゃこの生活は変えられないと、考えがやっとそこにたどりついたんだ」

 そこで昌男は北海道庁立農業講習所(現・北海道立農業大学校)に1年。続いて長野県にある八ヶ岳経営伝習中央農場(現・八ヶ岳中央農業実践大学校)にも1年間身を置き、合計2年間、農業の実践を学びます。その後北海道の実家へ戻り、合理的かつ効率的な農業を実践しようと試みますが、皮肉にも知識を得たことでより父親と対立し、確執は深まるばかりでした。

 2、3年家の仕事をしましたが、やがて、もうここは自分の居るべき場所ではないのかもしれないと思いはじめた昌男。その頭の片隅に、一度読んで忘れられない言葉がありました。

 それは十勝の農業講習所にいた時にたまたま目にした、茨城県の農業学校が発行していた「鯉淵学園だより」です。そこには園長 鞍田純先生の論文が掲載されており、当時急激に変化する社会情勢のなかで農業を学ぶ者に対し、このようなことが書かれてありました。

『君たちは急な流れに竿をさして船の舵をとる、その竿の役目である。農村のさまざまな厳しさを乗り越えていくために、船頭する役目を果たすのだ』

 この論文につよい憧れを持っていた昌男は、家を出て、鯉淵学園に行くことを決めました。

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 あらためて農業を学び直そうと思い立った昌男。しかし遠い本州の学校で2年間勉強するにはお金がかかります。そこで当時最も日当が高かった炭鉱で働いて、費用を稼ごうと思い立ちました。ニセコ町からさほど遠くない岩内町に茅沼炭鉱という小さな採鉱場があり、人夫を募集していたのです。

「ここなら一番稼げるだろうと思って、炭鉱の事務所に行ったんだ。日当は1日400何十円だったかな。寮もあるしね。なんとかここで働かせてくれと言ったら、初日からすぐにたん(石炭)の採掘班に入れられた。その日の夕方にはもうヘルメットとライト、腰にはでかいベルトにバッテリーつけて、ツルハシ持たされて、たん(石炭)を採鉱するところまで歩いて入ったんだ。まさかそれには俺もびっくりした。採用された当日、仕事が終わって寮に帰ってきたらそこがまたすごいんだ。四人部屋で、広さは四畳半くらいあったかな。炭鉱の仕事は昼夜二交代に分かれて作業するから、交代で使えばどうにか間に合うんだろうが。空いてるところには酒の一升瓶がごろごろ転がっていて、囲炉裏を囲んで人もごろごろ転がってる。それを見て、こんな生活は俺にはとても無理だと思って2日目で辞めちゃった」

 次に職業安定所へ行き、水田農家の奉公人の口を見つけます。一年のうちの半分、米作りの繁忙期だけ働いて、給料は手取りで月6,000円。半年で得られる36,000円では入学のための費用と当面の生活費として決して十分な額ではありませんが、「これでなんとかなる、なんとかしよう」と奉公に励みました。

「鯉淵学園の園長は東大の教授で、中国の北京大学の教授もしていた人。他にも立派な先生がいっぱいいるみたいだった。そこは満州開拓のための幹部を養成するために国がやっていたところで、試験会場は東京と札幌と福岡と愛知だったかな、全国4か所でした。戦争のせいなんて言うのは言い訳かもしれないけれど、実際俺は小学校5年生からほとんど勉強していないからね、普通の学校は受からないと思った。それで俺、入学試験をなくして鯉淵学園に入れてくれと、園長に手紙を出したんだ。それが効き目があったのかどうかはわからないけれど、試験を受けてなんとか入ることができた」

 昌男は生まれ育った北海道を離れ、茨城県東茨城郡内原町(現・水戸市内原町)の鯉淵学園に入学します。同学園は農業・農村の担い手を養成することを目的として1945年に設立され、広大な敷地に農場や教育棟、学生寮などがありました。昌男が入学した当時は「一般農業科」「農業協同組合科」「農村生活科(後の生活栄養科)」の3科があり、2年制のカリキュラムが組まれていました。

「一般農業科で入ったけど、勉強の基礎をやってきていないからね、始めは教室に出てもまともに理解ができなかった。試験なんかも全くの白紙で出したりね。これではもう授業に出ていてもダメだと思った。それで2年間の半分以上は俺、図書館で過ごしたんだ。みすぼらしい小屋みたいな建物だったけど、本は結構いろいろあったからね。教室なんか出ないで、試験勉強もしないで、とにかくそこにある本を全部読んだ。でもそんな俺のこと、関心を持って見てくれてた人たちも結構いたんだよ」

 いくらおおらかな時代だったとはいえ、教室に行かない、試験も受けない生徒がそのまま卒業できるわけがありませんでした。昌男は本科の2年間を自己流で過ごしながらも、「農業経営」という専科を根城に学びを深め、卒業資格を手にします。

 そして昭和34年(1959)、旭村の大谷農協に就職が決まり、営農指導員としての道を歩き始めることになったのでした。

 

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