いばらきの生産者

HOMETOPICSTOPICS01 > 大八洲開拓農業協同組合

 「満蒙開拓移民」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。1931年(昭和6年)から1945年(昭和20年)にかけて、国策として旧・満洲国(中国東北部)や内モンゴル地区に送り込まれた、27万人にも及ぶ入植者の人たちです。彼らは主に出身地ごとに団を組み、現地で協同生活を営んでいました。 1945年8月、ソ連軍が満洲に侵攻してきたことにより、入植地を捨てて逃げざるを得なくなった時の逃避行の悲惨さは、現代社会に生きる私たちの想像を超える壮絶なもので、戦争がいかに愚かな行いであるかの証といえるでしょう。 終戦後、命からがら帰国した開拓民の多くは離散してしまいましたが、改めて国内で入植先を探し、協同体を維持した団体もありました。その一つが「大八洲(おおやしま)開拓団」です。満洲から逃げ出す時、移民先で召集がかかっていた多くの男性団員は、行き先も生死もわからない状況にありました。当時、団長も抑留されており、団長から指名された者が指導者となって、残された女性や子供たちを引き連れて帰国の途についたのです。どん底の逃避行のなかでその6割を亡くしながら、生き残った一行70名は昭和21年9月9日、佐世保港に上陸しました。 行方不明者が戻ってきても受け入れができるよう、1カ所で少なくとも80戸が、まとまって入植できる新天地を見つけたい。その難しい条件を決して諦めず、団員の多くの出身地である山形県ではなく、同年11月より菅生村(現守谷市)に入植。満洲で果たせなかった、百姓で身を立てるという夢に向かって再生させたのが、現在の大八洲開拓農業協同組合です。利根川と鬼怒川の合流点に近い三角州などで、大規模農業を営んでいます。

水害との闘いの歴史

−最初に入植したのが、「流作(りゅうさく)地区」という利根川の河川敷。総面積100町歩(約100万平米)もの広大な土地で心機一転、開墾の日々が始まりました。当初からご両親が組合員だったという、現組合長の杉原さんにお話をうかがいました。

杉原さん  「流作地区」は見渡す限りの広野原に草ぼうぼうで、堤防もなく毎年のように水害が及ぶ地帯でした。本来は堤防さえできればちゃんとした土地になるからということで入植したのですが、コンクリートで堤防を築いても決壊してしまう。また今現在もそうですが、堤防の一部には低い部分が設定されています。この辺りは後に遊水池に指定されてしまったのです。 おかげで毎年台風が来る度に、牛や家財道具を土手の上に運び上げなくてはなりません。小さな子どもたちまで駆り出され、千頭もの牛たちを遠い土手の上に移動させて繋ぐのです。乳腺炎を起こさないように朝晩二回、1頭1頭仮設の搾乳所へ移しながら乳を絞ってやる、その労力はとんでもないことでした。 近年になって、ようやく牛は水害の及ばない「大原地区」で飼育するようになりましたが、米作りは続けています。先の台風(2019年台風19号)でも洪水被害に遭い、今ちょうど広大な土地の天地返しをしているところです。表層と深層の土を入れ替えて土中の水分を抜き、空気を入れてやらないと、来季の田植えができませんから。今でこそ重機を使えますが、昔はこれもすべて人力です。毎年繰り返される水との戦いに、とてつもない苦労をしてきました。移民に出た時から社会の底辺にいるのは、今でも変わらないということを、台風の度に痛感しました。

使命は大規模農業を継続すること

−水害の避けられない「流作(りゅうさく)地区」では、何十年経っても生活などできない。丘地にも開拓地を拓いて、住居や家畜を移そうということで、現在組合事務所のある「大原地区」を開拓し、ここでは畑作と酪農を主体にしています。同様に「素住台(すずみだい)地区」でも畑作と酪農をしていましたが、後に守谷市からここに宅地を造成したいと告げられ、要求を受けて代替地の常総市に移転しました。他に水田主体の「浅間山(せんげんやま)地区」があり、現在は4つのエリアで営農をしています。

杉原さん 最初に入植した「流作地区」は河川区域のため活用が難しく、初代の組合長が広大な土地をまとめて買うことができました。当時は田んぼ1枚を8反歩で耕作していましたが、今は倍の1町6反歩でやっています。この大きさの田んぼは国内ではなかなかありません。牧草地といい、田んぼといい、北海道のような広大さがうちの売り物。我々開拓者は緻密な農業よりも、大規模にやるのが得意です。その名残ですよね。 満洲時代、ロシア軍が侵攻してきたときに、関東軍はすぐに撤退。異国に取り残された我々の祖先は、言葉では言い尽くせないような酷い思いをしながら、命からがら日本へと引き揚げてきました。そうした経緯から、私は国の根底になくてはならないのが「国防と食料の確保」だと考えています。先の団長がよく言っていたことですが、「世の中浮き沈みがあり、いろんな業界、いろんな仕事があるが、有史以来無くならないのが農業だ。国の根底に農業はなくてはならない」と。全くその通りで、先進国で農業に力を入れていない国はないでしょう。自国の食料自給率がどれほど重要であるか。その点、今の日本はとても危うい。 元々満蒙開拓移民という国策は、昭和恐慌によって食べられなくなった地方の農村を更生させるためのものでした。どんな災があっても食べるものには困らないように、たいせつな食料生産に関わる部分を担うのが、うちの組合の基本方針。大規模な生産システムの基盤を守っていくことが、組織としての目標です。

分業制、ひとつの家族、ひとつの財布

−大規模農業以外にも、大八洲開拓農業協同組合ならではの特色があります。それは満洲開拓団の時のような社会が、今でもほぼ同様に機能していること。現在60数世帯あるという組合員の中には、畑作り、米作り、畜産業、それぞれの専門農家のほか、大工や電気工などの専門職や会社勤めの方もいます。それぞれのスキルを提供し合い、1つの大きな家族のように協同生活を行っているのです。

杉原さん 満洲ではどこの団にも様々な職種の人が居て、独立した社会を築いていました。今も基本的には同じで、それぞれ自分の得意なことを出しあって、助け合っていくというのがうちのシステム。昔だったら出稼ぎ班、塩作り班、開墾班などもありました。 例えば私は流作地区に田んぼを所有していますが、自分で耕作したことは一度もありません。田んぼづくり専門が、すべてをやってくれています。家では豚も飼っていますが、私は組合の仕事があるので、予防接種などは養豚専業の者たちがうちの分まで面倒を見てくれています。 私が子どもの頃には開墾なんかも手伝った記憶があります。そういう時には幼い子どもを世話する専門の担当者を作って、今の保育園に相当するような感じで面倒を見てもらっていました。それぞれの住まいも組合の事務所も、大工の指示でみんなで手伝って、全部組合員の手によって作られています。 組合員は賦課金を納めて組合を維持しています。冠婚葬祭や医療費などはそこから支払われます。一家の大黒柱が入院等で長く家を空けても、その間の仕事は組合がマッチングをして、誰かが自分のうちと同じように維持しておいてくれるので、心配は要りません。畑も田んぼも元気になったところで戻ればいい。お金が必要なときは組合から借り入れができる。何かアクシデントがあった時にはすべて組合を通して対応しています。移民団はそれが当たり前ですし、逆にそうしないとやっていけなかった。それが今でも根付いているのです。

脈々と今に生きる開拓団魂

−杉原さんが組合長に就任する際に、「今の国内情勢であれば組合がなくても十分生きていける。これからどうする?」と組合員の皆さんに問うたそうです。その時に、「このまま組織を存続したい」という皆の意思を確認しました。また、「開拓」という言葉も今どき時代錯誤ではないかと、組合の名称変更を協議しましたが、むしろ若い組合員から、敢えてその名を残したいと言われたそうです。親や祖先が体験してきた歴史がしっかりと語り継がれているうえに、協同体の心強さが身に染みているからでしょう。ここでは多くの農家が抱えている、後継者不足の心配もないようです。 そんな組合で、これまでにない動きが出ています。平成13年に創業し、地元の人々に愛されている「のむヨーグルト」を製造している「ミルク工房もりや」を、株式会社として独立させたのです。

杉原さん 当初から私たちは牛を飼い、牛乳を生産してきました。その生乳のおいしさは地元の方にはよく知られています。皆さんがおいしいと言ってくださる「のむヨーグルト」や「レアチーズケーキタルト」を、今後もっと広範囲に流通させていきたい。そのために、初めて組合の外の民間会社と提携し、「ミルク工房もりや」を独立した会社にしたところです。「のむヨーグルト」は健康に育てた牛の生乳を87%以上使用し、丹念に発酵させた手作りのヨーグルトです。添加物は一切使用せず、丁寧に手作りしているこだわりの味を多くの方に味わってもらい、歴史ある地域の特産品として確かなものにしていければと思っています。 この地に入植してからもさまざまな苦労はありました。しかし、新天地を探すたった一つの条件であった、生き残った団員がみんな揃って集団帰農できる場所がここでした。あの時に受け入れていただいたことへの感謝は、今でも忘れていません。

【取材録】

 最後に今回の取材のなかで最も強調したいことを杉原さんにお聞きしたところ、力強く「国防と食料」とお答えいただきました。満洲から引き揚げてくる時の不条理な体験や飢えの苦しさを、二度と繰り返してはならないという強い思いが、その時まだ生まれていなかった杉原さんにまで、自分ごととして受け継がれているからこそ、発せられた言葉。「だからこそ私たちは、日本に何事が起ころうとも、食料の面で貢献できる農業一筋にいくのだ」と。
 私はこの言葉には、「国家は国民を守り、飢えさせない義務があるのだ、それを忘れないでもらいたい」という悲願が含まれていると理解しました。それは折しも、2019年11月に来日したローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が、長崎の爆心地公演で行ったスピーチの一節、「人間の心の中にある最も深い願いの一つは、平和と安定への願いです」と、同義語であると思います。

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